或阿呆のブログ

巷では、武器商人@ダーツで通っています。Python好き好きプログラマーです。芥川龍之介、太宰治が好きです。

ニュー・シネマ・パラダイスでカタルシス

涙抜きには語れないわこれは・・・。

恋愛と夢のどちらを取るか?!これは間違いなく、夢でしょう!

ただ、思春期の若者にとっては、選択しきれない。どっちも取れるものなら取りたい。自分にも似たような経験があって、上京するときに、すごく悩んだ。すごく好きな人がいて、地元の大学に入るべきか、東京にある自分の入りたい大学に入るべきか、ものすごく迷った。恋愛のほうを取って、地元に残ったら、今はまったく違う人生を送っていたと思う。そして、たぶん、どっちもダメになっていただろうな。

といいつつも、夢も成し遂げられず、恋愛も上手く行かない今の俺がいるのも事実だが。ただ、辛い決断をしたという経験と、一時の情に惑わされず、自分の信念を貫けたという経験は、かけがえの無い経験となった。

恋愛って、お互いが向き合っているばかりだと、上手く行かないと思う。お互いに人間だし、お互いに他人だから、他人を自分の思うとおりにすることは出来ない。お互いが自分のやりたいことをやりつつ、同じ方向を見ていくのが恋愛なんじゃないかと思う。向き合うのと、同じ方向を向くのでは、まるで意味が違うということを30歳を超えて気付いた。若いときは、相手を振り向かせ、自分のほうを向かせることを強要していた節があったと思う。そして、振り向かせられたとしても、飽きちゃったり。立場が逆の同じような経験もしたし。

アイデンティティの形成には、こういった経験は影響を与えたと思う。

ニュー・シネマ・パラダイスのストーリーは、直接的には自分の経験とは共通点が無いんだけど、アルフレードの行った行為というのは、人間の悩みとか葛藤とかそういったものを浮き彫りにして、今何をすべきかという点を考えさせるには良い薬だった。かなりの荒治療だったとも言えるが・・・。トトにとってだけではなく、観ている側に過ぎない俺にとっても。

トトの青年期から中年期にあたる時期の描写はされていない。映画監督として、名の知れた存在になったというのだから、並大抵の努力ではなかったろう。中年期のトトを見ると、ガムシャラで、犠牲にしたものもだいぶ多かったように見える。逆に言えば、エレナの存在はずっと大きかったのではないか。時間ってのは、思い出を美化するものだから、妄想の中で、どんどんと大きな存在にしていってしまったのではないかと思う。エレナだけではなく、故郷シチリアに対するノスタルジーも同じ。

劇場版ではカットされたけど、完全版ではカットされていない、中年エレナとの再会のところ*1、個人的には好きだ。何十年も前のボタンの掛け違い。アルフレードの行為により、エレナとの果たされなかった約束。それに対して、あんなにも感情的になるトトが、ずいぶんと人間的で、好きってそういうことだよなと思った。

エレナは犠牲にされたかもしれない。ただ、犠牲というのは、杜撰に扱うこととは意味が違う。

世の中の愛とか平和とかそういった綺麗なものの下には必ず数え切れないほどの犠牲がある。個人レベルで見てもそれは同じことで、生きる上で、背負っていけないものを、泣く泣く犠牲にしなければならないことはあるだろう。そして、犠牲の上に成り立つものって少なく無いだろう。犠牲無しには成り立たないといっても過言ではないかと。

これからの人生で、犠牲にしなければならないものは、少なくないだろうけど、その犠牲の上に、なんか大輪の花が咲けば、その犠牲も報われるんじゃないかなと。

また観なおそうっと・・・。こういう作品というのは、年代が変わってから観ると、印象もずいぶん変わったものになるから。

*1:通の間でも好き嫌いが別れるほど